羊の血の池




きらきらとひかる、いのちの河



         羊の血の池


うだる様な舗装されたアスファルトの熱の蒸し返す嫌な臭いに雨の降る前の温い湿気の臭いの混じる町中の臭いは最悪だ。鼻が利く人間にとっては拷問にしかならない無関心な町を摺り抜けていつもと同じように適当な店で軽いパンを買って齧り空を見上げれば湿気を含み切れなくなった雲からぱたぱたと水滴が落ちてきて。五分と待たずにざあ、という擬音の似合う降りに変わった。
慌ててどこかの店の軒下に駆け込んで雨を遣り過ごしながら息を吐く。
すぐに戻るつもりだったので傘は持っていないがわざわざ買ってまでという気にもなれず少し濡れた髪を摘むと雨に湿気ったアスファルトの臭いに混じった嫌な臭いを感じ、すっと意識がそれに絞られていくのを感じながらぎり、と拳に力を入れた。
あんなに煩わしかった街の雑音と雨がアスファルト叩く音と嫌な臭いが気にならなくなるのが不思議だ。
「こんな良い天気の日にお散歩なんてするもんだな」
「ご期待に添える展開じゃなくて良かったぜ、気に入ってる毛皮濡らしてまで逢いに来てやった俺としては、な」
ぱしゃ、と水溜まりを踏みながら軒先から外に出てやってきた客人の用件(まぁ聞かなくても互いに用件なんて一つしかないのだが)に付き合うために爪を出す。
ぎりぎりと上がる内部の熱と感情を感じながら殴り掛かれば相手も同じように爪を繰り出してくる。それを利用して腕を引いて身体を投げ飛ばすと近くに停めてあった車が派手な音を立てて歪みセイバートゥースは怒りの視線を向けたまま掴み掛かってくる。
焼けるような強い憎しみの炎、互いの手首をぎりぎり押さえ込みながら至近距離の眼球に映るその彩は果たしてセイバートゥースのものなのか自分自身のものなのか解からなかった。
ぱ、と閃光。
けたたましいサイレンに小さく舌打ちして離れた巨体に言う。
「近所で仕事した後のようだな、さっさと逃げた方が良いんじゃねぇか?ヴィク。」
「流石によぉく鼻が効くチビにはバレバレだったか。生憎今回は仕事帰りだったんだが、まぁ今回は派手にお遊びするワケにはいかなさそうだ。」
ちらほらと集まりはじめた野次馬とサイレンを一瞥して姿を消すかと思われたセイバートゥースは何を考えたのか通りの先にある細い裏路地を顎で差し示し歩き出した。その背を見ていると立ち止まり早く来い、と身振りだけでウルヴァリンを呼んでまた背を向けた。
もし此処に残れば下手をすれば警察沙汰にもなりかねない。世間の自分−−−−自分達への視線を痛いほど痛感しているだけに面倒事は避けたかった。
しかも多分凶器は爪。自分もそれを武器にしているだけに尚更捕まるわけにはいかない。ウルヴァリンは自分にそう言った。言い聞かせた。本当の事など大したものでもない、此処で立ち去る事は逃げるという事にもなる気がして足早にその後を追う。
セイバートゥースは雨も介せずどんどんビルの谷を抜け猥雑なネオンの光る薄汚れたビルの裏口を開け地下に下り、また分厚い鉄か何かの金属の重い扉を開けると狂ったような大音量の音と闇の中を縫うように歩いていく。すっかりお互いに着衣は濡れて靴からは嫌な水音さえ聞こえるのに店も前を歩くこの男も全く気にしていない様だった。


意外に広いフロアを抜けてまた分厚い扉を開け奥に向かえば辺りのソファや椅子で微熱の様な欲の誘うままにセックスに興じる若者に困惑しながらどんどん人気の無くなる廊下の一番奥の扉を開けた。
闇の中に浮ぶ水槽の中くるくると踊る極彩色の魚が青白い光の中相手の尾鰭に噛み付いた。
「先にシャワーを使え」
濡れた毛皮のファーを皮張りのソファに投げ捨てながら言われた台詞に首を振ると長い金の髪をタオルで拭いながら真新しいタオルを投げられてそれで身体を拭いた。
雨宿りにしては込み入った場所に連れ込まれた上に此処で戦うつもりなのか疑問だけが頭に浮ぶ。
辺りは闇。
くるくると光る赤と青の光と白い小さな室内灯がぽつ、とベッドとソファを照らしていた。
「ほとぼりが冷めるまでの間の雨宿り程度にゃ丁度良い部屋だろ」
「こんな悪趣味な場所に連れ込まれて雨宿りといわれても胡散臭いだけだ。」
投げられたウォッカの瓶を綺麗に受け取って言うとセイバートゥースは何を思ったのか小さく笑った。
「胡散臭い……確かに。そうだな、違いない。意見が合うのは二度目か?」
「サイクロップス……か、ま、そういう事になるな。」
室内は不思議と何の匂いも無かった。水槽の中でくるくる踊る美しい尾の二匹の魚に視線を向けながら手元にある酒瓶の蓋を開けてそのまま口に含む。ウォッカ特有の機械的なアルコールの味。
外からの声も音も何もない闇の中水槽の中だけが激しく動いている。
「魚、趣味なのか?」
目の前の男と極彩色の魚とのイメージの釣り合いが取れずに聞くとセイバートゥースはいや、とだけ答えて部屋の隅にある机の引き出しから葉巻を取り出して火を点ける。
愛用しているものが置いてあると言う事は確かにこの部屋はこの男の持ち物の一つなのだろう。
魚は優雅で美しかった。
青白いきらきらとひかる水面で踊るに相応しい姿だった。
「どうみえる?」
突然掛けられた声に意味を掴み兼ねて視線を向ければどこか可笑しそうに自分を見ている視線にかち合い、馬鹿にされている様な気分で質問の意図を尋ねた。
「どういう意味だ。」
「こいつらがおまえにどう見えてるのか興味があるだけさ。どうみえる?」
ウルヴァリンはもう一度水槽を見た。くるくる踊りながらでも互いに一向に離れる様を見せない二匹は−−−−
「……好き、あっている様に…みえる」
水を吸ったままの服の冷たさも忘れ、ぽつり、と落した言葉にセイバートゥースは少し目を見開いて暫く沈黙してじっとウルヴァリンを見つめた。普段の闘っている時のあの激しい光はそこには全く介在しない、全て飲み込まれる様な闇のいろの目だった。
そんな視線を向けられるとは思っていなかったウルヴァリンはぐらぐらと揺れはじめた脳裏を正常に引き戻そうと必死になるが全て無駄に終わる。
「本当に?」
低い声に促されるまま答える自分に苛立ちながらウルヴァリンは半ば自棄に頷いた。
「嘘吐いたって仕方ねーだろうが。だから何だ。」
「…好きあってる、ね。いやなかなか良い答えだ、全くだからお前が好きで堪らないんだぜ俺は」
次に浮べた表情はどこか狂った嬉しそうな笑み。
「その腹を引き裂いて内臓全部引きずり出して心臓にキスしてやりたいね」
「ふざけんな、そうされる前に俺が貴様の忌々しいツラ潰してやるよ」
馬鹿にされてるのか何なのか解らないままに言えばセイバートゥースはにぃ、と牙を立てて笑う。
「この魚、仲が良いように見えるか?」
「…そうじゃねぇのかよ」
くるくるくる、回る、跳ねる尾。

「こいつら、殺しあってんだぜ」

一方の魚が尾鰭に二度食いつき、ついに綻び始めている。
「どっちかの命が無くなるまでお互いに殺しあってんだよ、こいつらはな」
ぱしゃん、と水が撥ねた。
空気がねっとりとしたゼリー質の何かの様だ。
狭い水槽の中、互いの憎しみで本能のまま闘っているのは、

ウルヴァリンは部屋を飛び出した。何もかも否定したい気分だった。自分はそんな事を望んでいるのではない、たったひとりの人に自分を愛して貰いたかっただけだ。
外の雨が煩わしい。
あの水槽を思い浮べるだけでぞっとした。あれを眺めている第三者、そんな存在すらある様な気がした。
カプセルの中に満ちたあの、嫌な液体。
ああ何て事だ、そんなもの思い出したくも無いのに!!
ウルヴァリンはあてもなく走りながら首を振った。
いやだ、いやだ、もうくるしいのは、いたいのはいや、

がたがた震える体を抱えて蹲る。いっそ狂ってしまえたらずっと楽だ。だが自分には出来ない、なるわけにはいかない、なりたい、そうさせてほしい、相反して混乱したままの頭を抱え、ウルヴァリンは泣いた。
ジーン、好きになるのは自由、想うだけなら自由、なぁそうだろう?

開け放たれた扉の奥でセイバートゥースは微笑った。
水槽の中、魚はくるくると踊り片方の魚は力無く水面に浮かび上がる。
床に散ったウオッカの瓶の破片を一つ摘んでその死骸を掬い机に置いてもう一本葉巻を吸う。
闇の奥、赤い小さな炎に一瞬照らされた貌は穏やかだがどこか歪んだ、そんな笑みだった。



                                     了




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