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われらは暗闇の中で叫んだ、

「番人よ、夜はやがて過ぎ去るのか」




歌。



 さして広くはないが雰囲気の良い店は、コンサートホールから近いこともあって、今日この時間は人で溢れていた。良い演奏を聴いた後は、ゆっくり束の間の時間自らの心を動かした音楽について語り合いたくなるものだ。そこでは、今日の演奏が素晴らしいものだったことを告げるように、人々が遅めのディナーを楽しんでいた。静かで上品な雰囲気漂う店内で、チャールズとエリックもまた、周りの人々と同様の話題を楽しんでいる。
 まずは今日の良かったところ。そしていささか耳についたところ。指揮者の癖。ソリストの相性など、演目に個性があり、またそれでいて素晴らしかった時は次々に新しい切り口から話が弾む。そしてそういった諸々の事を語り合った後、食後のコーヒーを飲む頃には、また話が最初に戻って、素晴らしかった部分が感嘆と共に語られるのだ。
「"夜は過ぎ去った"私はそのフレーズが好きだな。天から降り注ぐように響くファルセットが光を告げる。ソリストも素晴らしかった」
 チャールズは、数十分前のミューズの囁きを思い出しているかのように、言葉の途中で瞳を閉じる。その言葉を継いでエリックも返す。まったく同意見というわけでもないが、彼も今夜ミューズを垣間見たという点では同意見のようだ。
「私はどちらかというと、その前のフレーズの方が好みだが…。番人に問いかける場だ」
 詞も…、と小さく付け加えるエリックにチャールズは、少し寂しそうに微笑みながら、コーヒーにミルクを注ぐとゆっくりとかき混ぜた。黒い液体に白い渦が生まれ、やがて薄い茶色に変わる。その液体を口に運んだ後、チャールズの瞳は全てを知っているかのように静かにエリックの方に向かう。その瞳の奥にある彼の力にエリックはもう慣れていたが、今は少し辛く感じてつい口調が言い訳をする時のようになってしまう。
「いや…そういうことでは…無いと言えば嘘になるかもな。ただ、私はどうしても考えてしまうから…」
 クラシックと現代呼ばれる音楽は知られているよりも実は宗教的な意味合いを持つものが大半を占めているのだ。そして今夜の演目もその類いのものだった。
 今夜の演目がメンデルスゾーンだからかもしれない。ナーバスになっている自分を感じてエリックは目を伏せる。かつてかの作曲家の音楽を聞くことが出来なくなった時と場所で、私と私の周りの人々に様々な事が起こった。辛い出来事が――――。
「神は…。たとえいたとしても、何かを告げることは…ありはしない。祈ったとしても…」
 何度も彼らに祈ったことがある。彼らを呪ったこともあったかもしれない。だが彼らは答えなかった。何も…変わらなかった。最後には自分がなぜこうも彼らに拘泥しなければならないのかと可笑しくもあった。何故、と。問う相手さえ、彼らなのだから。エリックの心はそのまま向かいに座っている男と出会う前に向かって流れ出ていきそうになる。しかし、その流れを塞き止めるようにチャールズの声が響いた。
「エリック…それは違うよ」
 はっきりとした口調で、チャールズは言った。そしてエリックの手を取り、彼の目の奥を見つめようと身を屈める。エリックはその強い口調に引き戻され、ゆるゆると視線を起し、チャールズと繋げた。すぐ目の前の彼の瞳はめったに見られないほどの自身の感情で揺れていた。平生穏やかな姿勢を崩さない男のこの様子にエリックは素直な驚きを見せる。
「…チャールズ。すまない…、君にはもうわかっているんだろうが…」
「…そうやって、何でも私がわかっていると思うところが君のわかっていない所だ」
 そう言うと、目蓋を閉じてチャールズはコーヒーを口に運ぶ。再び開いた彼の瞳にはいつもの穏やかな色が戻っていた。頬にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいる。
「そうだね、どこから話そうか」
 チャールズのいつもの癖が始まったな、と思いながらエリックはふっと肩の力を抜く。チャールズの頭の中は謎だらけだ。さっきまで考えていたことが何で、どういう切っ掛けか急に普段とは違った感情を見せたかと思ったら、また同じように急に自分で元に戻した。その間に彼のなかで何が起こったのか、彼が今から何を話そうというのか、エリックにはさっぱり分らない。いつも説明が無い。彼の思考を辿ろうと奮闘した時期もあったが、結局叶わなかった。心の流れについて説明を求めると少し寂しそうな表情をするチャールズに、いつしかそれもしなくなった。必要を感じなくなったせいもある。彼の心の流れは分らないが、こういうときにはどうすればいいか、それをわかっていたから―――。
「どこからでも」
「ありがとう。――私はね、実はイタリア系のオペラが苦手なんだよ」
 エリックは素直に驚いた。チャールズは音楽全般に親しんでいたように思っていたからだ。
「初耳だな…」
「…音楽は好きだよ。ただ、能力が発現してからは…ね。オペラを劇場で…なんて恐くてとても無理だったよ。特に巨匠と呼ばれるような演奏家たちの演目なんて…。彼らは一流と呼ばれるだけあってセルフコントロールというか精神の部分まで持って舞台に上がってくる。だから心に響くのだろうけれど、私にとっては…」
「響きすぎるわけだ」
「そう。情熱的であればあるほどね」
 強い感情は勝手に入り込んできてしまうから…というチャールズに、エリックはそういえば、彼とイタリア系のオペラを鑑賞したことが無いことに気がついた。コンサートへ誘うのはいつもチャールズで、エリックは誘われればあまり演目には拘らなかったから深く考えた事はなかったのだが、今夜その理由が明らかになった。
「そう、強い感情だ。ところで、エリック、神について歌うとき、人に取り付いている強い感情とは…何だと思う?」
 エリックはチャールズからの問いに暫く考え込む。…神に縋るか讃えるか、我が身を嘆くか…そんなところだろうかと、自らの脳裏に去来する思い出に影を感じつつ口を開いた。
「救いを求める…感情?」
 考えた末に、エリックが出した結論にチャールズはゆっくりと首を横に振った。
「いや。人を救おうとする、感情だよ」
 まさか…という顔をするエリックに、チャールズは続ける。
「彼らのアナリーゼは凄いよ。彼ら自身が救いを求めるというのではなくて、聴いている人々をその言葉と音楽でもってすくい上げようという大きな意思が伝わってくる」
「しかし…では…」
 歌い手たちはどうなるのか…とエリックはふいに自分のことのように感じてエリックに詰め寄る。彼らの心は救われているのか?彼らは何を信じて祈りの言葉を歌に乗せる?救いは…
「それがね、彼らはちゃんと救っているよ。自分自身もね。人に救いを願うことで、彼ら自身も救われている――。その心がつたわってくるんだ。正に昇華といってもいい。そこに確信犯的な要素は無いよ。純粋な音楽に対する情熱と詩に対する真摯な気持ちで彼らは神に近づくのかもしれないね。その喜びを伝えることを喜びとする…なんて、昔の伝道師さながらだけれど、私はそう感じるんだ」
「チャールズ…」
「エリック、君も救われている。神にではなく、君自身の手によって」
 チャールズは再びエリックの手を取ると、優しく彼に語りかける。私を救ってくれただろう?と。彼の言葉にエリックは自らの言葉を失う。深く感じる事ほど言葉にするのは難しい。そんな口では表せない想いがそこから伝わってくれればいいと、エリックは、微笑むチャールズの手の上に自らの手をに更に重ねた。
 エリックの行為にチャールズは微笑むことでその心を受け取っていることを示す。少したってエリックはようやく落ち着いたのか、長い息を吐き、チャールズに向かって礼を言った。
「ありがとう。私の長い夜も…君に出会ったことで明けたのかもしれないな」
 二人で想いを交し合った後、ふと気がつけば店内は人もまばらになっていた。
「さぁ、本当に夜が明けてしまう前に、帰ろうか」
 冗談めかして言うチャールズにエリックも笑って応える。
「そうしよう」

 二人は連れ立って出て店を出、遠くない未来に恵まれし子らが集うことになる学舎に帰路を定めた。長く明けなかった夜をこえて、光を見つけた二人が歩む道の向こうに何が待っているのか、今この時は解らなかった。ただ、夜が明けたこと、その光が照らすお互いの未来を前に、もうすぐ本当の夜明けが訪れようとしていた。




しかし番人は語った、

「すでに朝が来た以上、今度は夜になるだろう。

汝らは、すでに問いを発した以上、再びやって来て再び問いを発することだろう、

『番人よ、夜はやがて過ぎ去るのか』

と」



だが、彼らは知っている。
出会ったことで、もう夜は明けているのだと。

そしてもし再び、その息吹を感じたとしても、
再び光が訪れるであろう事を――――。



夜は過ぎ去った。








fin.


引用出典:
メンデルスゾーン 交響曲第2番「讃歌」6番より





色々と解説が必要な部分も沢山ありますが、とりあえず用語。
「アナリーゼ」は曲想を煮詰めることです。歌詞と楽音記号から曲を紐解くことといいますか。
私も結構ないい加減知識なので、間違ってたらスイマセンですが…(汗

メンデルスゾーンは裕福な商家の生まれで、そのせいかどこか育ちの良さというか
底が明るいというか…な楽曲の持ち主…だと勝手に私は感じます。
急き込むような歌も沈む歌詞も、どこか陽の雰囲気を孕んでいるんです。
ユダヤ人だったため、死後ですがナチス政権下で演奏が禁じられた時もあったらしく。
エリックも色々と思うところがあったらいいなぁと思いまして。

個人的なイメージなのですが、教授はメンデルスゾーン好きそう。育ちが合うのでしょう。
逆にマグ様とかはもっと重厚なタイプの作曲家を好みそうな気がします。
月並みですがベートーベンとか好きそうだな。
二人ともイタリア…なイメージではないなぁと。あ、名誉のために、私はイタリア歌曲は大好きです。
変に情熱的だったり確信犯的に滑稽だったりするところも含めて。力強いオーラが魅力なのですvv
(2004.07.27脱稿)

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